太宰治の「津軽」は、「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであつた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。」という書き出しで始まる。
今回の目的は2つ。一つは前回斜陽館に行って、それから初めて「津軽」を読んだ。そして太宰の歩いた道をたどってみたいと思い立った。もう一つは、この間の2回の車中泊で、つれなくも「勝手にいったら」といっているサイ(妻)をなんとかして一度連れ出し車中泊の魅力を伝えたい。このために先日行ったばかりの津軽へ、再度強行することと相成った。

大まかな予定では、金曜夕方に仙台から東北道を北上しSAで一泊し、土曜になってから高速を降りる。浅虫温泉に入り、津軽半島東海岸沿いを北上し、前回いけなかった青函トンネル記念館を訪問し、金木で斜陽館を見学し、白神山地を訪ね、帰宅。ざっとこのような計画をたてた。車で行くわけだし金曜の夜に出発し、日曜の夜までと、限られた時間しかないこと、天候も見ながら計画はその場で変更することにした。

浅虫
「この青森市から三里ほど東の浅虫といふ海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言へない。寒々した東北の漁村の趣は、それは当然の事で、決してとがむべきではないが、それでゐて、井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙な高慢を感じて閉口したのは私だけであらうか。自分の故郷の温泉であるから、思ひ切つて悪口を言ふのであるが、田舎のくせに、どこか、すれてゐるやうな、妙な不安が感ぜられてならない。私は最近、この温泉地に泊つた事はないけれども、宿賃が、おやと思ふほど高くなかつたら幸ひである。これは明らかに私の言ひすぎで、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、さうして貧しい芸術家の小さい勘でものを言つてゐるだけで、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者に押しつけたくはないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないはうがいいかも知れない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直してゐるに違ひないと思はれる。」

◆「道の駅」浅虫温泉ゆ〜さ浅虫



7時前に「道の駅」浅虫温泉ゆ〜さ浅虫に到着。この道の駅は、展望浴場があって、陸奥湾や湯の島を眺めながら温泉を満喫できる。オープンとほぼ一緒に入ったが、すでに2人が入浴していた。窓からは正面にこれから行こうとしている津軽半島が遠くに見えて、「さあこれからだ!」という気持ちにさせてくれる。温泉も40度と43度の2種類が用意されていて、熱いのが苦手な私にはうれしかった。どうせサイもおそいだろうと久しぶりに30分近くゆっくり入浴できた。ところがサイはなかなか出てこない。1時間待ってやっと出てきた頃は、湯冷め状態。寒っ!。サイが浅虫弁当の広告を発見。「これ食べた〜い」ということで店の人に聞いたところ、売店は9時からしかあかないらしい。しかも外から運んでくるので、少し時間がかかるらしい。なかなか諦めきれぬサイに、「確か太宰は蟹田カニ食ったはず。」と、苦し紛れにうろ覚えで答える。やっとサイも諦めて、蟹田へ行ってカニを食べることで合意した。


蟹田〜竜飛
津軽半島東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、後潟《うしろがた》、蓬田《よもぎた》、蟹田、平館《たひらだて》、一本木、今別《いまべつ》、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩《みまや》に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛《たつぴ》の部落にたどりつく。」

途中蓬田(よもぎた)通過中、むかしよもぎた君ってTVででてたよな〜。何のTVだっけ?などと会話しながら、よもぎた物産館・マルシェよもぎたのとなりの玉松海水浴場を散歩。陸奥湾は穏やかで、ここでのんびりという気持ちにもなりますが、予定があるのでGo。目の前の津軽線を貨物列車が走り去っていきました。

観瀾山
「私はれいのむらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのやうなものものしい身支度をする必要は全然なかつた。その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる。」

◆観瀾山

今はもう秋〜だからだれも居ない。だから観瀾山には誰もいなかった。見晴らしの良い場所に、ひっそりと太宰治の文学碑がたっていた。目の前には、フェリーポートがありここ蟹田から下北半島脇ノ沢までいけるようだ。
港にはトップマストというガラス張りの建物があり、館内には、フェリーのチケットや地元物産が売られている。近くを見たが、どこにもカニが食べられそうな場所はない。サイにはリサーチ不足とののしられる。近くにカニが食べられるところはないか訪ねたら、それなら夏にきてよね〜と一蹴されてしまったのである。残念。

道の駅たいらだて

途中道の駅たいらだてで、おみやげ購入し、おでんをいただく。コーヒーターム。


◆高野崎

義経寺へ向かう途中で、開けた場所があったので立ち寄った。高野崎という岬に到着。夏場はキャンプ場になっているようで、岬の上は気持ちの良い芝生でおおわれている。あざみが花をつけていたり日当たりも良く、是非夏にもう一度きてキャンプをしてみたい。岬から海を見下ろすとなにやら太鼓橋が2つ。「潮騒橋」と「渚橋」という橋らしい。どうしても近くから見たくなり階段を下りる。橋の近くは磯になっていて磯だまりがあり、小魚が泳ぐ。子どもたちを連れてきたら、喜びそうな場所である。
三厩


本州最北端の駅。当然ながら線路はここで途絶える。

義経

「奥州三馬屋(作者註。三厩の古称。)は、松前渡海の津にて、津軽領外ヶ浜にありて、日本東北の限りなり。むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かはり恙なく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。」

◆遭遇

義経寺から竜飛へ向かう途中、あじさいロードを走行中におさるさんと遭遇。

青函トンネル記念館


前回時間が無くて果たせなかった記念坑道の見学をしました。
青函トンネル記念館駅からケーブルカーもぐら号乗車にのり竜飛海底駅に着く。徒歩で構内での説明(約40分から45分)を聞きながら体験坑道見学。再度ケーブルカー乗車青函トンネル記念館駅にもどる。記念館は11月上旬までということだったので、今回滑り込みセーフでした。

◆竜飛埼

坑道見学でおなかが空いたので、竜飛崎温泉ホテル竜飛で3時過ぎの遅い昼食。温泉に入りたかったが湯冷めするのを心配し、見送る。
「ごらんあれが、竜飛岬きたのはずれと、見知らぬ人がゆびを指す」と石川さゆりが唄います。
階段国道を眺め竜飛埼へ。




◆竜飛の町

「私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るやうにして竜飛に向つて突進した。路がいよいよ狭くなつたと思つてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた。「竜飛だ。」とN君が、変つた調子で言つた。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」

◆小泊
「こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢ひたいと切に念願をしてゐたのだ。いいところは後廻しといふ、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのゐる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。」

着いたのは5時過ぎだったため銅像を見ただけにおわる。